お互いには、まず己から
人のことは所詮他人事です。他人のことを自分のこととして理解していようが、替わってあげることはできません。また自分に降りかかるまでは、あくまでも「つもり」です。理解などできるのでしょうか。
キリストであっても、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」という言葉が、十字架の上の7つの言葉として残されています。イエスでさえこの言葉を発しながら他の者たちの罪をその一身に背負って、磔刑にて消えていきます。
50歳も超えてきますと、周りに亡くなる方も多くなり、友人も一人、また一人と消えていきます。活発な諸先輩方には叱られるかもしれませんが、身体も少しずつ無理がきかなくなり、気力も失せてきます。そして取捨選択する必要性が増えてきて、またその取捨選択の意味合いも重くなってきます。
さっと切り捨てて、身軽になるのも一つだと思います。または、背負い続けて磔刑に消えるのも一つだと思います。
今自分の環境が変わっていく中、さっと身軽になるように動けるようになりたいと、自分で招いた業やそれまでの人々の業を受け止めながら、考えています。考えておりますが、動くのですが、これがまた上手く出来上がってこない。実行できていない。悩んでおりました。
「生成発展の万物と調和して愛護し、勤労を尊ぶこと」という教えに触れ、「お互いに低い優しい心で協力することが勤労の実行になる」というご訓話に接しました。
勤労として、今まで働いてきておりましたが、いやはやまったく「はたらく(端楽)」ではなかったとしみじみ思い返しました。「こんなにやっているのに!」「ここまでしてあげているのに!」という気持ちがどうしても出ていました。
「お互いに低い優しい心で協力することが勤労の実行になる」というご訓話の「お互いに」というところが重要だと理解しました。相手からではなくて、お互いにというところは、まず己から始める。そんな心境に自分を導くことから始めようと決心させていただいた機会を得ました。ありがとうございます。
万霊万物尊愛を胸に、常に前を向き、よどみなく進む神の道に遅れをとらないように、天地自然の法則に沿った心持ちで歩みながら、報恩の低い心で調和して働き、生き生かされていく、一日一日と終始一貫であれるように実行をしてまいります。
このように生き生かされている世界に自分は存在しているのだと改めて気づけたことに、心の誠より感謝を申し上げます。
(T男 会員の手記を基に一部編集したものです。)
