大惨事を目にし、耳にして
先生、もう天界にあってご存知のことと思います。1月17日早朝、 阪神地方は想像を超えた大地震に見舞われました。亡くなった方は5300人を超え、10万戸以上が被害を受けました。
先生、いのちの親は、先生を通じて、
世の中のすべてのものは借りもので 心ひとつが神にいただく
という教えを伝えられました。
その借りものは人々の生活には欠かせないものであって、これもまた、人の努力に対する神の贈り物です。その多くが壊れ、焼け、使えなくなりました。
「汲めどもつきぬ宝」である命を落とした方の中には、無念の思いを抱いた人もいます。本人ばかりではありません。その家族には、心残りが魂にまで染み込んでしまった人もいます。心ひとつが神にいただくという、その心までが次第にむしばまれ、疲れているように感じられます。
被災した人たちは学校の体育館などに避難して、心身ともに休まらない日々をじっと耐えています。
環境は神の教え(神教)という言葉を聞かせていただいておりますが、この言葉は、「だから耐えろ」という意味ではなく、「だから助け合え」という意味だと思います。
このような大災害に見舞われ、その事実から私たちが引き出す教訓は無尽蔵です。
一つの自然現象を原因として、一挙に生活の壊滅というべき事態に落ち込んだ今回の地震のほかにも、日本列島を襲う、台風、津波、水害、冷夏など、自然の猛威は限りがありません。
先生はこれらの災害について、いのちの親のお諭しを取り次いでおられます。その趣旨は、人が、いただいた魂を浄化することに、もっと深い関心を持って、日常生活に実践することの戒めと受け取れます。
大切なことは、このお諭しが災害に遭った人への教訓ではなく、私たちすべての人への教訓であるということなのですね。
そうなると、災害に遭った方々は、人類の代表として、わが身を捧げ、わが財を失い、そうしてすべての人への教訓にするという、たとえようもない大きな奉仕、つまり人類への警告をなさってくださったと思います。そうすると、同情を超えた感謝がわいてきます。
昨日までは私たちと同じように生活をしてきたのに、今日は一転して被災者の、無い無いづくしの生活になるという厳しさはたとえようもないことでしょう。
何もかもそのままでしたという人はありません。程度の差はあれ、元に戻すためには知力体力だけでは不可能という方ばかりです。
しかし、先生がお諭しになっていらっしゃるように、すべての源は心にあります。その心に、安らぎと勇気とが届くように祈りを捧げております。この祈りがいのちの親に通い、人々の心に届くよう、先生、どうぞわれらの祈りをお聞き届けください。
被災された人も、それを知らされて何もできないと歯がゆい気持ちの人も、この祈りに心を結集しましょう。
先生、先生は、
病む人よ病まれる人よ二方よ 元をただせば一つなりけり
というみ教えをお示しくださいました。
その内容は、病む人と、病む人を看病する人とは、二人ともその苦しみにおいて、その悲しみにおいて、また時にはその喜びにおいて何の違いもないということを言っているのではないでしょうか。
とかく病む人に対して、看病する立場になると、己の健康への感謝よりは、健康である優位を思うことがあります。元をただせば等しく神の子、させていただくという気持ちを持ってお世話をしなさい―それが本当のあり方ということですね。
今度の 阪神淡路大地震でもそうです。被災した人も、応援する人も、元をただせば同じ神の子、させていただくという気持ち一筋になることが、このみおしえを生かすことだと心に定めています。
さらに言えば、被災された方と、憂いや悲しみをも共にしていける愛を、たとえこのひと時でも私が持つことができるように、先生、私はいのちの親に祈っています。
今、このようなことを先生にお伝えできるようになった私の、これまでの道筋をじっと見守ってくださった先生、有り難うございました。
I男 会員の手記を基に一部編集したものです。