父母恩重和石
- (建立)
- 一九六五年(昭和四〇年)九月一一日
- (所在地)
- 和歌山県 高野山奥の院参道
- (揮毫者)
- 亀井清堂
- (碑表面)
- 出居清太郎詠
父恋し母なつかしといしぶみを
建てて昔を偲ぶ今日かな
父母の今もこの世にましまさば
肩などさすりまいらさんと思う
妻菊の詠 - (碑裏面)
-
昭和三十九年九月十日
高野山、遍照光院に於いて
偶感
御仏の徳を慕うて高野の山
天高く涼風身心を洗う
古きを尋ね新しきを知る学ぶ一時
嗚呼積徳苦行の跡
ここに来て幼きころの思ひ出が
一つ二つとうかびくるなり
母さんは大師の徳をせなに負ひ
晴れ着召されて我をうむとや
父君の四二歳の二つ児を
松の根本にすてられし我
母さんはせめて高野に一度だけ
おまゐいりしたいと願ひゐたなり
いまここに院主夫妻の慈愛にて
母の思いを建てるうれしさ
あゝふしぎなり今日の日は
天の声あり教え子と
父母の功績たたえつつ
涙と共に物語る
去にし昔の弘法の
徳の光に導かれ
母のいしぶみ建立を
神に誓うてむせび泣く
秋月かろく水すみて
四方の神秘はみちみちて
ありし姿の母君の
笑顔は地上をおゝいける - (副碑)
-
建立の由来
父母恩重経に曰く 父に慈恩あり母に悲恩あり父母の恩重きこと天の極まりなきが如し と父幸八は栃木県安蘇郡界村高萩在 毛利氏の後裔たる出居氏 母こまは同郡犬伏町在 藤原秀郷の末流たる青山家の出である
父は生来公共心に富み私財を投じて郷党隣人に奉仕斡旋するを常とした 母は賢にして慈しみ深く 夫に仕えて貞節勤倹力行して家計を整え 五人の子女を撫育するかたわら青壮年に算盤を教授し 又信仰心篤く平素特に弘法大師を尊崇社会教化に努め高野参詣は母の終生の悲願であった 明治三十二年十二月三日霊夢にみちびかれ はればれと晴着身につけ生みおろす この子はいとも不思議なるかな
の一首を詠じ紋服に身を清め五色の瑞雲たなびく中に私を生んだと聞く この故を以て祖父清蔵は三男の私に清太郎と命名し長子の礼を以て養育せられたが両親は特に精神教育を重んじ殊に母の宗教的信念に基づく言語動作のしつけは厳格であった
後年天啓によって私が神の使徒として生を享けた使命を自覚すると共に神の啓示により天地自然の法則と言霊の原理に基づくみ教えを汎く世に弘め自らこれを実行することを終生の奉仕とするに至ったのは天稟の資質に加え両親の感化に負うところ大なるものがある
昭和三年以降 天啓により私は政府国民に屢々警告を発したがそれが当局の忌諱にふれ無実の罪に問われること再三に及んだ 三度目の獄中にあった昭和十一年三月十日 私に代わる妻菊のの手厚い看護の下母は七十三歳を以てこの世を去り生前の宿志であった高野山参拝は遂にこれを果し得なかったのである
嗚呼客年九月十日 私夫妻は鈴木教之氏一家の先導を受け十数名と共に長川親子宿願の縁につながる高野山遍照光院に詣で院主夫妻と対談して肝胆相照し両親の事に及び建碑のことにふれるや感涙滂沱言下に之を快諾せられたことは誠に感激に堪えない
母没して茲に三十年 奇しくもその命日に当たりこの聖域に父母恩重の碑を建立して報恩感謝の念を捧げると共に母の遺志にも副い得たのは院主夫妻の厚意と関係者の温かい協力によることは勿論同時に母の霊魂のみちびきと弘法大師の深き慈悲に由来するものというべきである
茲に慷慨を叙し厚く感謝の意を表す次第である
昭和四十年九月十日
出居清太郎識
昭和十一年三月十六日 市ヶ谷刑務所内に於いて母の死を伝えられて
静思 獄中の作
今日の日は思いもよらぬ母の死を
聞いて涙のかれるまで泣く
今思う三度いただく飯さえも
のどを通らず母の思いか
三日前母の笑顔が夢の中
永遠の別れと獄舎たづねて
母親の死目にあえぬこの我は
いかなる縁のむくいなるらむ
世の中に思いはあれど父母思う
思いは深し親の慈愛を
ああ母さんよ母さんよ
冷たい獄舎の鉄格子
いかに無実といいながら
不幸の罪を許されよ
長い年月母さんに
苦労をかけた私だが
平和の土台築くため
草葉の陰で守ってね
今に見ていよ世の中は
天に火柱水柱
神の試練にもがくとき
無実の罪も晴れ渡る
神石・和石
名称 | 碑文 | 所在地 | 除幕日 |
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父母恩重和石 | 父母恩重碑 | 和歌山県 高野山奥の院参道 | 1965/09/11 |